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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

一人芝居 堀河西山庵草紙

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一人芝居 堀河西山庵草紙
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一人芝居

  堀河西山庵草紙

   ほりかわにしやまあんそうし

               
         老いの堀河 墨衣(すみごろも)である

         都は西山の麓の庵

         平 清盛の隆盛の頃



         情景

         西山の麓に荒れ果てている庵がある         。

         総てで八畳一間、その前に少しの庭が見える。春を前にし、山櫻が蕾を付けた頃。

         背後は山の気配である。



         序



堀河  そこを行(ゆ)かれるお坊さま・・・誰ぞお尋 ねでござい ましょううかな。この京は西山辺りには 人は誰も住んではおられませんゆえ・・・道でも間違 われたのでしょかな・・・。

 なにぞこの尼の顔についておりましょうかな。歳を取 り醜い尼が荒れ放題の庵・・・珍しゅう御座いますか な。

 ・・・もしや、あなた様は・・・西行どの、西行法師 殿・・・。左様でござりましょう。いいえ違いませぬ ・・・お顔は・・・お変わりになられておられますが ・・・あの頃の面影が・・・。

 笠をお取りになってように見せてくだされませい・・ ・。

 この堀河は歳を取るという未(いま)だ歩んだことの ない道を彷徨(さまよ)い、西行殿に一目ではお分り 頂く事も叶わぬ程の変 わりよう・・・。

 笠をお取りになられたそのお顔、まさしく・・・。

 それにしましてもなんというお変わりようで御座いま しょうか。歳月を無駄になさらず、ご立派に・・・男 を、いいえ・・・。人を研かれたのですね。

 女院様がみまかられてその後消えるように京をお離れ になられ、能因法師(のういんほうし)様が歩まれた 道程(みちのり)を訪ねられ陸奥(みちのく)は平泉 (ひらいずみ)へ、その道すがらお目にしたことの様 々をお心に貯えられ、流れに宿命(いのち)を託す生 き方をものにされ、また、お帰りの後は高野山にお入 りになられ数多(あまた)の経を読み砕き無言の行に 励まれたことは・・・。大峰山の頂へ登られるという 荒行・・・。そして、吉 野、奥嵯峨、小倉山、西山 と庵をお結びになられ、仏の道を極めるご修行を、歌 の言葉の習得をと・・・。

 崇徳院とのご親交によってさらにさらに森羅万象(い きとしいけもの)を包み込まれて、御仏の意を、お歌 を深められ・・・。和歌(うた)で人の心も、現実( うつせみ)も変えようと・・・。

 風の便りで・・・そのことは・・・。

 人は為す思いがあれば如何様にも変われるのものなの ですね。お出立ちも御風貌も・・・。錫杖(しゃくじ ょう)をつかれたお姿が、墨ごろもがよう馴染んでお られますな。

 今の、堀河の前にお立ちになる西行殿には・・・。

 正に・・・この堀河が近寄れぬなにか空気の壁がある ような、また、引き込まれそうな力を感じまするが・ ・・。澄んだ眸のなかに宿る厳しさと、深い慈悲の光 ・・・。削り落としたような頬には理知と耐えぬかれ た修行の後を刻まれ・・・。

 それではわざわざこの堀河を尋ねてくださりましたの か。そうで御座いますか、よくぞ尋ねてくださいまし たな。



 この雨や風に晒され傷んだ庵では御座いますが、縁に 座って都を眺め東山を望み、昔の懐かしい事どもを思 い起すには・・・今の我が身を静にここに置き、待賢 門院璋子(たいけんもんいんたまこ)様こと女院様を ご供養いたし偲ぶには最も確かの所で御座い まする 。今の私には相応の場所でございます。

 汚れた池になお見せる蓮の花・・・。枯れてもなお季 節を感じ咲く野辺の花・・・。その花の命をいとおし く眺めることも出来ます。また、雨の風の景色を彩る さまざまな営みにも・・・。

 御仏に縋り、森羅万象(いきとしいけるもの)に心を 託し、手を合わせる日々・・・。



 兵衛(ひょうえ)に西行殿におうたら一度尋ねてほし いとの言伝(ことずて)、届きましたのか。待賢門院 様の皇女上西門院統子(じょうさいもんいんむねこ) 様の女房をいたしております妹の兵衛とは仲ようして おり、西行殿が良く菩提院(ぼだいいん)へ足を向け られお会いすることがあると聞き及んで一度こちらへ お尋ね頂ければと頼んでおきましたのですけれど・・ ・。

 上西門院統子様にはすっかり女院様の面影を備えてお られますとか・・・。



 女院様のご落飾(らくしょく)のおり私と中納言の局 が御供を致し出家をいたしました。兵衛も御供をする と言い張りましたが、未だ若かったので思い留まらせ 内親王統子様へ・・・。女院様亡き後、私は仁和寺に 入り、中納言の尼は高野山西麓の天野へ・・・。そし てこの堀河は西山へ・・・中納言の尼はその後、小倉 山に庵を結んでおります事は・・・。この西山も小倉 山も西行殿には縁の深い地で御座いましょう・・・。 未だ奥嵯峨に庵をお持ちとか・・・。



 それにいたしまてもうれしゅう御座いまする。願いが 叶ったので御座いますもの。今日はなんという良い日 でございましょうか。朝起きたときなにかいい事がと ・・・何度も庵への坂を上がり降りをいたした甲斐が あったというものでございます。

 朝夕の御仏へのお願いが届いたのでございましょうか ・・・。

 御仏のご慈悲か、お悪戯(いたずら)か、さてどちら でございましょう。

 底冷えのする都の地にも、山の木立は芽を吹き始め、 またこの庭の山櫻はあのようにして漸(ようやく)く 蕾をつけましたょ。西行殿と都と櫻・・・。

 それよりも何よりも西行殿がご立派にお過ごしのこと 、昔を知る者にはほんに胸を撫で下ろし、近しく昵懇 (なかよし)にしていただいた者には誇りにすら思え まする。

 鳥羽院の北面の武士佐藤義清(さとおのりきよ)殿が 、今、歌人西行と、御仏の使いの円位上人(えんいし ょうにん)、その名声は都はおろか国の隅々まで届い ておりましょうほどに。



 おしゃべりが過ぎますか・・・。



 にこにこ笑ってないでなにか申されませ。女子に喋ら せて・・・歌詠みは喋らぬもの、語ると歌の魂が消え てゆくとでも言いたいので御座いまするか。ほんにお 手のかかるお人じゃな。全くあの頃と変わっておりま せんな。



 佐藤義清どの、西行法師殿・・・

 終日一人庵に篭もり考えることは、華やかであった頃 の待賢門院璋子様のこと、そして、西行殿のこと・・ ・。

 はたして、この堀河がいたしたことは良かったのかと ・・・。そのことは私を思い煩わせ・・・。この数年 心の澱(おり)となり何やら重い石を胸に抱いている ように晴れやかな日がありませなんだ。御仏に心を託 しても、しかし、今日、西行殿にお会いして、お顔を 拝見いたしまして少しは心やすうなりましたが・・・ 。

 ああ、こんな筈では御座いませなんだ。

 懐かしき想い人を前にして、まるで恨みつらみの言葉 を投げ付けているようで・・・。

 歳を取りますると何もかも吐き出してしまわないとと 焦りまするが・・・。何事にも顔を赤らめておりまし た私がこのようにお喋りになって・・・。一人で居り ますと胸に言葉がつかえまして、西行殿にお会いして 一気に口元がゆるみ零(こぼ)れまする。

 このような私をお許しくださいませ。

 ただただ嬉しいゆえなのでございますから。

 さあさ、むさくるしいたたずまいでは御座いますが、 お上がりくださいませ。

 さあさ、脚絆に草鞋をお取りになられて・・・さあ・ ・・。

 このような、着るものは墨衣、住まいは何もなくさん じらかし・・・。欲も得もなく生きておりますと、遠 い昔のことが泡沫(うたかた)の夢のように感じられ ることも御座いますが・・・。

 あれは・・・。

 西行殿が父源顕仲(みなもとあきなか)の所へ歌を持 って通ってこられておられましたのは・・・。

 私が父の病気見舞いで里帰りをいたしておりました折 り、まだ十代の西行殿、いいえ佐藤義清殿に初めて御 目かかりました。その頃、待賢門院様に姉の大夫典侍 (だいぐてんじ)、妹の兵衛、それに私、姉妹三人が お側でお仕えいたしていたのでございます。



 そのことはご存じで・・・。遠い日その事はお話を・ ・・。



 蹴鞠の上手な若者、まだまだ歌は未熟では御座いまし たが、父顕仲が申しますには直接訴えてくる不思議な 歌じゃと、綺麗に歌うのではのうて森羅万象の心を歌 っておると申し、将来が楽しみじゃと・・・。父の目 は曇ってはおりませなんだな。

 年上の女でも、義清殿を遠くから眺め弾んだ気持ちが おこりましたぞ。この私は艶やかに装い、顔に化粧( けわい)を施(ほどこ)し・・・。それ程見 事な美 丈夫なお人で御座いましたゆえ、都の女子を如何程や きもきさせた事でしょうかな・・・。この歳になって は恥ずかしさも慎みも捨てて何事も言葉として口の端 に乗せることが出来まする。今にして思うにあの時か ら、想い人として密かに心に・・・。その事が、のち に義清殿の行為をお助けし叶えるという事へと繋がっ ていたのでしょうか。



 義清殿には萩の前様とご一緒になられ・・・。

 それから、鳥羽院の北面の武士として御所詰所での警 護、御幸の御供と。



 義清殿は鳥羽院のご寵愛はめでたく、将来を嘱望され ておいでで、紀伊の國は田仲の庄のご安堵は約束され 、同輩から羨望の的として見詰められておいででした ょ。義清殿は、蹴鞠に乗馬、そして弓と励んでおられ ましたな。特に歌の習いごとは御気性の通り熱く懸命 に・・・のめり込まれて・・・。上達も早うございま したな。

 その頃、女院様には欲しいものは総てが叶う、そのお 力は比べるべき女人はおらず、の生活は暗喩(くらい )の日々が・・・。

 女院様の幸せは時の流れとでも申すのでございましょ うか、白河法皇が御崩御なさいました後、様変わりを 見せたのでございます 。

 七人のお子に恵まれましたが、鳥羽院のお足がだんだ んと遠退きお淋しい季節を過ごされるようになるので 御座います。鳥羽院には十七才の得子(なりこ)様を お側から離す事無く過ごされてお いでで御座いまし たから、夜枯れが続いておられ、あの権勢並ぶべき者 がないと言われておいでだった女院様の時代が終わろ うとしておったのでございます。



 幸福など川を流れる泡のようなもの、永遠(とこしえ )などこの世にあろう筈は御座いませなんだ。

 そうでございましょう、西行殿・・・。



 それでも、待賢門院様の御所は才長けた美しい女子の 園で、賑やかに笑いがたえませなんだ。が、だんだん と女院様の一喜一憂に心を砕くという日々を過ごすよ うになるのでございました。お淋しい事のお嫌いな女 院様は白河法皇の護願寺と致しまして法金剛院を御建 立に心血をそぞいでお気を紛らわせておられました。 女の喜びを知った熱いお体を鎮めるために何人の男を 引き込みになられたか、その時女の哀しみと強かさを 感じ取ったのでございます。女の性、それはどのよう な罪をも恐れぬものでございました。



 男を手引き致したのはこの堀河で御座いました。

 男の性とは異なりますゆえお分り頂くことは叶います まいが・・・。



 女院様と西行殿がお会いなされたのは・・・。

 女院様こと璋子様は藤原北家の流れの徳大寺家、義清 殿もその流れ、義清殿が稚き頃より徳大寺家へ出入り をされて、璋子様にお会いになられておられるのでし ょうか・・・。私の知るかぎりでは、鳥羽院と女御様 が熊野詣でのおり・・・お初めてと・・・。

 鳥羽院は女院様の仲を男と女のご関係を超越(通り超 し)され、ご敬愛(うやまいあいす)というお間柄で 接しおられました。鳥羽院は女院様をお誘いになられ 熊野詣でを好んでなさいました。女院様をお慰めする という意味がございました。つまり、ご機嫌をおとり になるという・・・。



 崇徳新院と後白河帝との確執(あらそい)、保元の内 乱・・・。崇徳新院が敗れ讃岐は直島へ配流(るざい )・・・。女院様が御存命なら嘆きはいかばかりであ ったことか・・・。お二人のお子が争う事に身も細る 思いで、ただ御仏に縋るそんな日々であられたことで 御座いましょう 。



 西行殿は崇徳新院と後白川帝の仲を取り持つためにい かほどの努力をなさいましたことか・・・。お心を痛 められたことか・・・。そのことで、また、一回り大 きくなられ・・・。



 藤原璋子様、中宮璋子様、それから待賢門院様へ、女 子と致しましてどうであられたのかと・・・堀河はこ の歳になって初めて羨ましく想うのでございます。

 西行殿、女とは此の様な者・・・愚かで・・・いいえ 、強かで・・・。お分り頂けますまいが・・・。



         破



 白河法皇に一身の寵愛(ちょうあい)をうけておられ た祇園女御(ぎおんにょうご)様のもとへ御養女とし てお入りなられ、そこで法皇に孫のように可愛がられ た藤原璋子様・・・。そこから運命の糸は複雑に縺( もつ)れあい絡み合いを見せるのでございますが・・ ・。



 西行殿、あの頃の堀河の女と致しましての感情の起伏 より、今はあの頃のことを静かに眺め、振り返ること が出来るのでございます。

 知っておりながら言葉にならなかった事が今、言葉と して語ることが出来るので御座います。

 総てを捨てこの西山に庵を構えなにの柵(しがらみ) もなく過ごし御仏の使いとして、経を読み、書き写す 心静な日々、今まで見えませなんだ物が見え、物事の 理(ことわり)が分かるにつれて・・・。振り顧みま すと、私の人生は女院様の生き方の中にありまして、 私を語るときには女院様の総てを語らなくてはなりま せぬゆえ。

 それゆえに・・・。

 女院様との関わりのあります西行殿にお会いしてみと うなりましたのです。



 源顕仲の娘として生まれ、父の影響から歌を学び、堀 河として中古六歌仙の中の一人、また「千載(せんざ い)和歌集」にも取り上げられ歌詠みと認められるよ うになるその道程(みちのり)で、令子(よしこ)内 親王の女房、六条の局としましてお仕え致し、それか ら堀河としまして藤原璋子様に・・・。



 祇園女御様を源忠盛殿へ下げ渡したその夜、お二人は なにの差し障りもなく結ばれました。璋子様は幼き頃 より白河法皇にまるで成熟した女のよう甘えになられ 、胸に抱かれておいででございました。

 それは艶っぽく、男の心を蕩(とろか)すいたずらの 瞳とあどけない仕草を持っておいででございました。 それにもましてお声は皆の心を擽(くすぐ)り魅了す る響きを持っておいででございました。お生まれつい てた御気性だったので御座います。

 それから・・・毎夜のようにお二人の痴戯は続きまし た。

 お二人のことをなぜか不潔に感じなかったのはどうし てか、むしろ清々しく思えたのはなぜだったのか、不 思議でございました。まるで母か姉の心で眺めていた のでございましょうか。

 女子の私は振り返ってみますれば羨ましゅうさえ思え るのでございます。あれほど愛される女子の幸せを知 らぬゆえなのでしょうか。

 月の物を知ったすぐ後、男を向かい入れる、歳の端の いかぬ少女の痛々しい性。女として生きる意味を知ら されるということ、夜毎の営みがより深い悦びに誘う ということ。そのお相手がまして、この國一番の権力 者に愛されていることになればこれ以上の女の冥利( みょうり)で御座いませんでしょう。女子は強い男の 愛を欲しがるものでございます。



 常に雌は強い雄を欲するもの、それはあらゆる動物( いきもの)の世界の成り立ちでございましょう。森羅 万象悉(ことごと)くその営みが・・・。人の世も変 わりませなんだ。



 あれほど睦みあいを重ねられてもご懐妊がなかったの は幸せであったのか・・・そのことを考えますと・・ ・璋子様の行く道が変わっていたであろうことを考え たりいたしました。

 堅い蕾が男の愛撫で柔らかく揉みしだかれ白く粉を吹 いた柔肌に変わり、ふっくらと丸みをおび括れた曲線 をたたえたお肢体(からだ)にお変わりになる、森羅 万象自然の理とはいえ、見事な女の脱皮を見たようで ございました。

 若い男を引き入れ情交するということもみな白河法皇 の愛を確かめるためでございました。それは白河法皇 がお許しになる事を承知の上でのこと、わざと男を欲 しがったのでございます。幼いいたずらでございまし た。



 西行殿、今は櫻も蕾をつけ寒さに耐えてはおりますが 、やがて綻びてまいりましょう。寒い冷たい季節を耐 えたものが初めて花咲かす事を許される、人の世もま た変わりませぬ。苦しみ辛さを耐えた者が許される誉 れ・・・乗り越えられ血肉にされてなお励まれる修養 。・・・まるで風の様で・・・それを受け流す柳の様 で・・・。西行殿、お見事でございますな。



 白河法皇は璋子様の行く末を按じられて幾つかのご婚 儀の話を進められましたが、祖父のように可愛がられ た白河法皇との交わりを知っていてなんのかんのと逃 げて話がまとまりませんで御座いました。処女(おぼ こ)でなくてはと言うような風習はありませなんだが 、祖父と孫が愛し合うような間柄、そのことには男と 女の出入りに寛容な時の世でも神経を逆立てたのでは 御座いますまいか。

 祇園女御様のように、白河法皇に愛され後に源忠盛殿 ヘ下げ渡す、何人もの男を引き込みながらも輿入(こ しいれ)する、そんな世間では御座いましたのに・・ ・。



 最後に白河法皇はお孫にあたる鳥羽の帝(みかど)へ の話を創りまして御座います。

 鳥羽の帝は何とも言えずそれをお受けになり、鳥羽の 帝十五才、璋子様十七才、入内(じゅたい)が決まっ たのでございます。

 璋子様のお心がどうであられたのか、最初にお肌を会 わせたお男(ひと)、初めて蕾を開き甘い蜜をおすい になられたお人、そのお人が進めるご婚儀に従わなく てはならぬ我が身の運命。その運命を抵抗(あらがう )ことも許されない事にどれほどの哀しみをお味わい になられたか。お話が決まりましての璋子様は終日泣 き明かしておいででございました。そこえ白河法皇が お越しになられ白いお肌に馴染まれる、その慰めの行 為により喜びと哀しみが交錯致しておいででございま した。断ることの出来ない肢体(からだ)との戦い、 求めるいじらしい一途さ、お側で見ている私達は切な さに身を捩(よじ)りました。



 入内の儀の日はとどこうりなく過ぎましたが、その夜 から高熱に身を妬(や)かれまして御座います。夜に は庭に出て衣をむしり取り、髪を掻き揚げ狂ったよう に泣き伏したのでございます。

 夜空に上がった蒼い月が池水の上で微かに揺れており ました。がたちまち雲の中へと隠れたのでした。

 その日はお疲れのご様子と鳥羽の帝に申し上げており ましたので、お立ち寄りもなく事は済みましたが、こ れからのことを考えますとどのようにと女房たちは茫 然と致しました。

 鳥羽の帝とご婚儀がなされてもご一緒に過ごされるこ とはなく、ご病気を口実に御所に篭もられる日々で御 座いました。

 数日が過ぎまして璋子様は御所をお出になられ白河法 皇のもとへ・・・。

 中宮璋子様のお便りを運んだのはこの堀河で御座いま した。色々と言い訳を設けての逢瀬、女房達ははらは らと気を揉みました。

 鳥羽の帝に入内なされ中宮(ちゅうぐう)となられま しても白河法皇との中は続くので御座います。璋子様 を一度はお離しになられた白河法皇は異常とも言える 愛欲をみせられ以前にもましてお肌を欲しがられたの でございます。



 それは、匂いを放ち蜜を滴らせて待つ花びらに吸い寄 せられる蝶の様を見るようでございました。



 それからは世間を気にすることを忘れられたかのよう に白河法皇が御所にお出向きになられ、昼夜を問わず お過ごしになられました。そんな時、女房達はお二人 の気配を押しやるように習いごとを始めるのが常でご ざいました。

 その時、白河法皇は六十七歳を過ごしになられ眼窩( がんか)は垂れて喉元に弛(たる)みをたたえ老いの 染(し)み皺を表されておられましたが、まだまだお 若こう御座いました。それはまるで璋子様の若さを吸 い取り若さを保っているようにお見受けいたしました が・・・。

 璋子様は、十七歳の幼さをお感じさせないほどの女の 色香を見せておいででございました。それは白河法皇 によって堀り起こされ目覚まされ磨かれたものでござ いました。

 濡れたような黒髪、ふくよかな頬、潤んだ瞳、瑞々し く透き通った肌、それは正に落ちる前の果実のようで ございました。それを鳥達が啄(つい)ばむ、まさに 白川法皇は一羽の鳥・・・。

 女院様のお美しさに堀河も身震いがするほどで御座い ました。



 白河法皇はご信仰の篤(あつ)いお方でございました ・・・理の何たるかの造詣(おもい)は深こう御座い ました。そんなお方でさえ理性で抑(おさ)えられぬ ものがあったのでございます。



 一年の後、皇子を身篭もるので御座います。鳥羽院か ら伯父子と言われた崇徳の帝ごでございます。お二人 目の禧子(よしこ)内親王も白河法皇のお子か鳥羽の 帝のお子か定かでは御座いませんが・・・。不義と言 うより鳥羽の帝が黙認した仲でのことでございました 。



 なんとも総てが思いの外、祖父と孫が一人の女を同時 に愛するという倫理(ひとのみち)とか常識では図り

 知れぬ世界であったの ございました。

 西行殿、このような物語(はなし)は聞きとうない・ ・・。昔の義清殿ならばそう申して太刀を振り下ろさ れるやも・・・。

 今の西行殿は何事も総てを大きく包み込む・・・御仏 の心をお持ちでございましょうから・・・。

 風が少し出ましたか、夕暮れが近こうなっておるので ございましょう。



 白河法皇がお勧めになられて鳥羽の帝は稚い崇徳の帝 に譲位され鳥羽院になられておいででございました。

 白河法皇とのご関係は続いておられましたが、鳥羽院 との仲も睦ずましくなられ、お二人とのご情交が続く のでございます。そんな時、応接に女房達は慌てふた めくのでございました。

 まるで畜生のそれでは御座いましたが、女院様はお二 人を同時に愛される事の出来るお性質であられたので ございましょう。

 御身に沁み込まれた蠱惑(こわく)でお二人の心を虜 (とりこ)にしたのでございます。

 璋子様にはこの頃が一番幸せの絶頂で御座いました。 白河法皇とも睦みあいになられ、そして、鳥羽院の寵 愛(ちょうあい)を一身にお受けになられ、毎夜のご とくお肌を重ねられ、次から次へと年子(としご)で 四人の御出産、一年後にもうお一人と・・・女子とい たしまして充実した日々を過ごされておいでで御座い ました。

 崇徳新院(すとくしんいん)と保元の乱を起こしまし た後白河の帝は鳥羽院と女院様の皇子で御座います。

 西行殿はお二人の中にあってお悩みになられたことで ございましょう。女院様の皇子のお二人が権力を・・ ・。

 崇徳院のみまかられての後讃岐は善通寺をお尋ねにな られ・・・。世の無常をお感じになられ・・・。その 旅もまた歌を深める事に・・・。



 女院はお幸せなな日々を過ごされておいでで、女房た ちは華やかに装い女院様と観櫻の御供として出掛けた り、熊野詣でを致したり、歌合せ(うたあわせ)へと 心を落ち着かせ過ごすことが出来ておったので御座い ます。

 女院様の一行は女房達が目の冷めるような衣裳を身に 纏(まと)っておりましたので評判でございました。 女院様のお力の賜(たまもの)でございました。

 七人目のお子を宿されておられたときに、白河法皇が ご崩御(ほうぎょ)なされました事は、お子に差し障 ることを按あん)じられ女院様へはお伏せになられま した。

 白河法皇、七十七歳の大往生で御座いました。

 ご出産の後、退いていく潮のように、女院様の運気と 申せばいいのでしょうか、白河法皇という後ろ盾を失 い日陰の時へと移り変わっていくのでございました。

 女院様は崇徳の帝へご愛情をましてお深めになるので ございます。その事がお力を保つ唯一のものでござい ましたから。



 人の道は良きことは長続きはせず、苦しきことのみが ・・・。それ故に御仏のご慈悲が・・・。



 鳥羽院は周囲の者が目を見張るほどの溺れようと言わ れます得子様へのご寵愛は日毎につのり、女院様の淋 しさは頂点に達しておいででございました。奈落の日 々とでも・・・。

 それでもなお、母親思いの崇徳の帝がおられますこと が何よりの慰めでございました。

 鳥羽院の女院様へのご愛情は昇華いたしまして尊して やまず、敬愛へとお変わりを見せたのでございます。 まるで母上への愛とでも申せばいいので御座いましょ うか・・・。

 鳥羽院と女院様の熊野詣でに中宮となられた得子様が ご一緒なされまして・・・。女院様のお心は安らかで あられたかと・・・。

 女院様はご一生で十三回の熊野詣でをなさりました。 それもなぜか厳しい季節を選ばれてのお行きでござい ました。その辺りに女院様のお心の苦衷(くるしみ) が見えるのでございます。

 御所での女院様はその頃から写経に読経の日々が訪れ るのでございます。また、寺院の御建立へと・・・。 ですが、女院様のお肢体は理性では抑えることが叶わ ず何人かの男を向かい入れなくては業火(ほてったか らだ)を鎮めることが出来ず、女の哀れさを思い知る のでございました。そして、お立場の苦悩を・・・。 その手引きをこの堀河が・・・。



 自然の営みは変わらず巡り、人の心の有様を知ってか 知らずか、繰り返すのでございます。



 女院様は慎ましやかで温和しい御気性のお方でござい ました。そのようなお方であられたから女院様を取り 巻くあの才気煥発な女房達は離れる事無くお仕えして いたのでございます。その生い立ちから男の、女の性 を充分にご存じのこと、煩わしい悩みを打ち払うには 御仏に御縋りするしか道はなかったのでございます。 白河法皇の護願寺(ごがんじ)しての法金剛院の御建 立は、白河 法皇の御崩御の一年の後、落慶法要(ら っけいほうよう)がつつがなく行なわれたのでござい ます。

 それからの女院様は頻繁(ひんぱん)に神社へ御幸( ぎょうこう)、塔のご供養をなさいまして御座います 。それほどお悩みになられておいでだったのでござい ます。熊野への道程(みちのり)を・・・。



 西行殿、十七歳で北面として・・・。同輩に今はとき めく平清盛殿・・・。白河法皇が平忠盛殿に御下げ渡 した祇園女御様のお子、世間では白河法皇のお子と・ ・・。その事は神仏のみご存じのことで御座いましょ う。



 義清殿は鳥羽院にいたく可愛がられ・・・お側には常 に・・・。熊野詣での折り、初めて女院様のお姿を・ ・・。凛凛しき若武者を・・・。お二人がお目にされ たのでは御座いますまいか。



 この庵で、堀河が何をと・・・。嵯峨野の里、小倉山 、そしてこの西山・・・。西行殿が歩かれた小径にな にぞ落ちてはいまいかと・・・。山里の静けさ、ため 息が落ちても鳴り響く鈴のような音、風が枯れ枝を揺 らし奏でる啜り泣き、季節の健気(けなげ)にも咲く か弱き草花、雨の軒を叩く慈しみの音色、小鳥の大ら かな囀(さえず)りの営み、その一つ一つに両の手を 合わせ、森羅万象にまた合わせる。そんな堀河の言葉 を三十一文字(みそひと もじ)に託しても人の心に は通じませぬか。老いすればやがて朽ちる命を今は過 去の幻に思いを馳(は)せ語る人とてないこの小屋に て、昔知りおうた人達のご成仏と健やかなる営みをみ 仏にお祈りいたしておりますと、穏やかな精神と研ぎ 澄まされる神経に快いときを過ごす事が出来るのでご ざいます。かつては、男と睦(むつ)みあう女の幸福 を、そして、好いたお人ともに歩み苦労をする、そん な道をと・・・。考えたことがありましたが・・・。 これもみな御仏のご慈悲と・・・。

 零れるように煌(きら)めく満点の星、まるで手が届 くようで幾度手を差し伸べたことか・・・。月に託し て恋を語り・・・。

 西行殿、この堀河まだまだ歌の心を捨ててはおりませ ぬ。

 和歌は歌う人の御仏、歌詠みが歌を創るということは 仏を創ること、その想い、いつか西行殿からお聞き申 したゆえ・・・。



 この辺りは日暮れがはようございます。名残の陽は洛 中を照らしますが・・・。東山がまだあのように赤々 と染まり・・・。

 まるで、女院様と美福門院得子様の有様のようでござ います。



 女院様の女房たちはお歳で退いていく方の他は離れる ことは御座いませんでした。

 女院様がご落飾を思い立たれたのは何時のことであら れたのか。衰えをお見せにならない優雅ないでたちは お変わりなかったので御座いますが、時折お見せにな られるお一人の佇まいには憂(う れ)いが漂ってお りましたので御座います。

 お部屋で読経、写経の日々をお過ごしになられる女院 様をお庭へ散歩にお誘いいたし、また、欄干にしなだ れかかる櫻をご覧にとお勧めいたしたものでございま す。

 水面に枝を差し出すしだれ櫻、薄紅色の花びらが、風 の悪戯によって、また、時を終えて散る様を、その姿 に涙をお見せになる、そんな女院様を優しく愛しく眺 めたことか・・・。

 女院様は草木の花は総てお好きであられましたが、特 にしだれ櫻を愛でておいででございました。

 しだれ櫻に御身をお重ねになられたのでしょうか。



 鳥羽院、崇徳の帝からの船遊びや、観櫻の宴、紅葉狩 りなどの誘いは常にございました。が、なかなかお出 かけになることもなかったのですけれど、私達女房を 気遣ってお受けになられることも御座いました。

 女院様がお出向きの折りは私達女房も御供をして晴や かな場所へ着飾って出られ、楽しい一時を過ごすこと ができるゆえでございます。そんなお優しいお心遣い は、御身のお立場を越えてお見せくだざいました。



 法金剛院は五位山の麓の広大な敷地に御建立。西御堂 、南御堂、阿弥陀堂である三昧堂を揃え、それに五重 塔、当時の宗派を備えておりました。まるで女院様が 浄土をお感じらなられる場所の様でございました。そ う申す者がおりました。また、広い池をもち、その周 りを馬場にし、船遊びや競べ馬(くらべうま)の出来 る仕組みで御座いました。それに、精舎(じいん)は 花をつける草木は植えぬものと言われておりますが、 四季に花を見せる希有(まれ)な精舎で御座いました 。女院様のお心は花を御覧になられ華やかであった白 河法皇とお過ごしになられた昔を思い出す事より、お 深い道へとお入りになられようと致していたのでござ います。女院様のお心のまま女房達が植えたでござい ます。



 西行殿、御仏は人の営みの総てをお許しくださるもの でございましょう。それがお慈悲で御座いましょう。 四季に咲く花の命に心惑わす、その薫りに心定まらず では、なんと修行のなさでございましょうか。何事が あろうと一心に務めることこそ大事であろうと想われ まするが。



 西行殿のお歌・・・。



    仏には 桜の花をたてまつれ

         わが後の世を ひととぶらはば



 そのように歌っておいでですから・・・。



         急



 崇徳の帝が法金剛院で観櫻の宴をお開きになられまし たその日・・・。その日が、女院様、義清殿にとって 運命を変える日になろうとは誰ぞ知る由(ゆし)もな かったことでございました。

 催しのなかに競べ馬が御座いました。馬場は大きく曲 がるところがありましたが、義清殿は騎馬を巧みに操 り、皆が落馬をする中を颯爽と一番乗りを致しました な。女院様は「のりきよ、義清」とお手を叩いてまる で無邪気なお悦び様で御座いました。

 その見事さに女院様が褒美を取らすと仰せになられた のです。私は義清殿にその事を告げに参りました。義 清殿は女院様直々の沙汰に怯(ひる)む事無く女院様 の御簾(みすだれ)の前に手を着き膝を折りかしこま りました。

 御簾の中から義清殿の姿を見られた女院様は、私の方 へお顔をお向けになり頷かれたのでございます。私は 御簾を揚げました。

 その瞬間・・・。

 女院様はお身体の力が抜けたように前に少し倒れかか られ、義清殿は咄嗟に両の手を差し出されて・・・。 お二人はじっと見詰められておいででございました。 そして、義清殿はわなわなと震えだしたのでございま す。

 辺りは暗やみになりまるでお二人のお姿のみに明かり が・・・また、落雷の稲光がお二人の間に・・・。

 お側に居りました私は目が眩(くら)み驚いて平伏し ました。



 その時、なにかをお感じになられ・・・。

 女院様は三十九歳、義清殿は二十三歳の頃で御座いましたな。たしか・・・。



 西行殿、憶えておいででございましょう。人は忘却の 川を渡るとは申せ、その淵に佇(たたず)みもどかし い日々を過ごしたことを・・・。あの時、過去も未来 もなく今を生きておられましたな。否、時を、一瞬を ・・・。総てを捨ててなおその出会いを・・・。

 西行殿、人として今まで感じたことのないその悦びは やがて苦しみへと・・・。愛するという地獄を・・・ 。あの一時のご対面が一劫(いちごう)の時に勝ると お感じになられましたことでしょう。運命の悪戯はよ りお二人の心の中に、池に小石を投げ込むように、恋 情を広げられたのでございましょうな。



 その日から女院様は頻りと義清殿のことを尋ねること が多うなったのでございます。運命をお感じになられ て総てを森羅万象に託され、一度はお捨てになられた 、お忘れになられた女院様のお心に愛の火が灯された のでございます。義清殿により芽生えたのでございま す。

 そのお姿は、今まで男を引き入れた女子の血潮ゆえで なく、いじらしい程のお恥じらいをお見せになられ、 頬を薄紅に染められ、立ち振る舞いもまるで少女の様 でございました。

 三条京極第(さんじょうきょうごくてい)の御所にお 仕えする女房はそのお可愛らしさにほーとため息をつ きました。

 都は頻りと風花が舞っておりました。うっすらと大路 を白く染め土壁から枝を延ばした寒椿の花びらが時折 音を発て下りました。京独特の身を刺すような寒さで は御座いましたが、女院様のお心は熱う燃えていたの でございましょう。

 そんな日々のなか、女院様のお心もお身体も北面の義 清殿へ傾斜して行かれまして御座います。

 「堀河、あなたは本当に人を愛したことがありますか 」

 「運命、その運命に沿って生きただけの恋は本当のも のではありませなんだ」

 「多くの人を愛したように想うが、愛ではなかった」 「もっと早く、若かった頃巡り会えていたら・・・」 「苦しいのです・・・」

 「最初で最後の恋、そのように想われて・・・」

 「私の人生は総て御仏が仕組まれた・・・ご慈悲なの ですね」

 几帳(きっちょう)の外に控え待つ私にそのようは弱 音を洩らされまして御座います。それはまるで初めて の恋をお感じになられた時のように・・・。想いの深 さ重さがひしひしと伝わりましたゆえ・・・。



 西行殿、あの日、櫻の花びらが、池の水面に垂れ下る 櫻の枝から零れるように・・・。



 月明かりの下、義清殿を女院様の寝所へ導き入れたの は・・・。

 「堀河、明かりはいりませぬ」

 女院様のくぐもったお声が・・・。



 静謐(せいひつ)が暗闇のなかにただ広がっておりま した。

 更け待ちの月明かりのもとしだれ櫻が紫に染まって・ ・・。



 「一生一度の恋、一夜の想い・・・。私は今日から一 人ではない。義清がいつも側にいてくれる・・・。一 度ゆえこのように美しくこれからの道を歩んでいくこ とが出来るのです。終わりが始まりであるのです。も っと大きな広い確かな世界へと誘ってくれるのです」 女院様は、御簾を揚げられ庭のしだれ櫻をご覧になら れながら、お言葉を落とされまして御座います。

 昨日までのことが嘘のように晴れ晴れと、何事かをふ っきられたお姿でございました。



 義清殿が、突然の得度(しゅつけ)のことは・・・。

 幸福なご家庭を・・・御妻女を、お子を捨ててなお・ ・・。

 女院様は驚かれるお様子もなく莞爾(かんじ)と頬を 緩められておいででございました。

 ご出家なされても、西行殿はよく御所を尋ねておいで になり、闊達な兵衛の局や明るい中納言の局と歓談し ておいででございました。女院様のことはお心の中で はっきりとお決めになっておられるようにお見受けい たしましたが・・・。

 女院様は兵衛の局や中納言の局が話す西行殿のことを お聞になられても、ただ、

 「そうですか」と頷いておられました。

 女院様を狂わせた忌まわしいことは総て義清殿との一 夜で綺麗に洗い落とされたように、ご安堵な日々が訪 れたのでございます。

 が・・・。

 崇徳の帝が、鳥羽院と中宮得子様との間にお生れの近 衛の帝に譲位、崇徳新院、鳥羽院となられるという世 間の動きは、女院様のお立場をより煩わしいところへ と向かわせるのでございます。

 母親想いの崇徳の帝が譲位され、女院様をお庇いにな られるお方はいなくなりますと、女院様のお力は弱お うなるので御座いました。それに引き替え美福門院様 のお力が・・・。

 そうしますと、今まで快く想っていなかった人達の嫌 がらせが始まったのでございます。女院様のお命をと 御所に火をかけることは二度御座いました。

 熊野からお帰りになられてすぐお住まいになられてい た三条西殿が焼失・・・その前にも四条西洞院第(し じょうにしのとういんてい)が・・・と身にかかるご 不幸は後を絶ちませんで御座いましたが・・・女院様 は何も恐がることが無きように振る舞われておいでで ございました。・・・それから以前にお住まいになら れていた三条高倉第(さんじょうたかくらてい)へ・ ・・。

 女院様のご心中はいかばかりかと気を揉み ましたが 、それをお忘れになるように・・・。

 女院様が三十一歳のお年から三十八歳の間に四度の熊 野詣でをなさいまして、白河法皇のご供養と、鳥羽院 、崇徳新院のご無事を御記念申し上げ、お子さまのご 健康を、また御自身の平安無事を願われたのでござい ます。どれほどの思い煩わしいことがあられたのでし ょうか、御仏におすがりになられ、また、遠い道程を お通いになられてなお、神のお加護をお求めになられ たのでございます。

 女院様にはそれからも様々な忌(い)まわしい、お心 を煩わせる波が押し寄せるのでございます。関白忠通 殿と美福門院様の暗い策略(はかりごと)で御座いま した。それにじっと耐え時を待つように西行殿と同じ 道へと登るのでございます。



 花の命が繰り返され、女院様は四十二歳の折り御落飾 を致すのでございます。

 「これで女子でのうなる。どれほどの安堵(あんど) であろうか」

 法金剛院の池を取り巻く馬場の方へ懐かしそうに視線 (まなざし)をお投げになられて零(こぼ)された女 院様のお言葉・・・。女院様の運命に堀河も中納言も 涙にくれましたぞ。

 中納言と堀河が御供を致して髪を下ろしました。

 兵衛の局は統子内親王の女房としてお仕えし、ここか ら女院様にお仕え致しておりました者皆別れ別れにな るのでございました。華やかで賑やかであった女院様 のお住まいには、ただ静かな物音さえなく静寂(せい じゃく)が広がっておったのでございます。その静け さにもまして、女院様のお心は一つの切っ掛けによっ て悟りを開かれたようにお平でお静でございました。

 綺麗な歌は読み人がそのように生きているから生まれ るもの。そのように生きてこそ、歌に心が入ったと言 える。

 歌は人の心を現実を変えるもの・・・。 歌で人を救 う・・・。つまり、御仏の広い慈悲のようなもの・・ ・。それ故に御仏をこの世に生み出すとの・・・。



 西行殿はその後仏道の修行をするでなく・・・。何を お考えなのか、京を離れる事も無く留まられて・・・ 。洛北(きょうのきた)に住まわれ・・・。何をお探 しになられておいでだったのでございます。深いお考 えの中でなにかを見詰められる眼は・・・。おやせに なられ・・・。ご自分を責めに責められて・・・。た だ、夢中で御仏の、歌の世界を・・・歩まれておられ たのですね。 西行殿、物事をその行為を総て背負わ れて・・・。それは、おとこの財(たから)・・・。 生き歩む目的として・・・。その事で仏の修行にも、 歌の道にも・・・。

 西行殿、人とはなんと悲しい・・・いいえ、強く生き られるものかと・・・。



 女院様は真如法尼(しんにょほうに)とおなりになら れ、御仏のお使いとして生きられる日々が平安のうち に続いておられたのでございます。

 「何があろうと私は一人ではない。義清がついていて くれる、それも御仏のご慈悲なのですね」

 女院様はそうお言いになられ御身を慰(なぐさ)めて おいででございました。

 女院様の本当のお心はどうであられたのか、推し量る ことさえ出来ませなんだ。

 法金剛院の庭には藤だなから花が垂れ下り美しい簾( すだれ)のようでございました。

 その一年後、はやりの病疱瘡(ほうそう)におかかり になられ、当代一お美しいといわれたお顔は・・・。 それから、寝込む日が多なったのでございます。

 女院様は法金剛院から御病気快癒のために三条高倉第 へお移りになられましてございます。女院様が三条高 倉第を懐かしんだゆえでございました。

 崇徳新院が結願(けちがん)の曼陀羅供養(まんだら くよう)を致した折りに鳥羽院もお出ましくださり優 しいお言葉をおかけくださりましたが・・・。

 女院様は何もお言いにならずただ小さく頬を緩めると いう日々が多くなりました。

 「運命に沿って生きた、その報いが・・・」とお笑い になられて・・・。苛酷な運命に対してもそれが我が 身の運命と従順にお受け取られておいでのようでござ いました。



 西行殿は三条高倉第の外で・・・。じっとしておられ ずにお気をもまれた事でございましょう。中納言の尼 がそのことを女院様へ・・・。

 「西行に心配はいりません。今の私は何も恐いものが ありません。私には御仏と西行とがついていてくれま すから、と伝えて下さい」

 なんと言う穏やかな表情をされておられたか・・・。

 西行殿はその伝事(ことづて)をお聞きになり涙を流 されたとか・・・。



 病臥(やまいにふし)なさいましてふた年が巡り・・ ・。

 女院様は、起き上がられることもなくなり、長い夏の 陽が西山に沈もうとしていた頃みまかられたのでござ います。

 名残りを惜しむかのように、蜩(ひぐらし)が一斉に 啼きはじめまして御座います。

 お手の中から数弁(すうへん)のあの櫻の花びらが・ ・・。



 女院様こと待賢門院璋子様が・・・

 三条高倉第にて四十五歳のご生涯を終えられたのでご ざいます。

 かぐや姫は月の世界へ帰られたのでございます。



    君こふる なげきのしげき 山里は

          ただ蜩ぞ ともに鳴きける



 女院様のお旅立ちに堀河はこのように歌いました。



 西行殿、なぜこのように女院様のことを語ったか・・ ・。

 総てこの堀河がなしたてむけは・・・。どうであった のか・・・。この堀河が女院様の歩まれる路(みち) をかえたのか・・・と・・・。

 この世のことは総て転寝(うたたね)のまぼろし・・ ・。



 その幻は御仏のご慈悲であったのでございましょうか ・・・。



 西行殿、お応え下されませい。



 なに、これは・・・。そのお答えの歌なのですか・・ ・。



    願わくは 花のしたにて 春死なん

            その如月の 望月の頃



 なんと・・・。

 黙ってお立ちになられて・・・。何処(いずこ)へ・ ・・。

 西行殿・・・。西行様!





        絞り込まれた明かりが一人堀河





    この稿を書くに及んでの参考文献として

    「西行花伝」辻 邦生著

    「白道」  瀬戸内寂聴著

    「待賢門院璋子の生涯」 角田 文衛著

    「逆説の日本史」    井沢 元彦著

    「平家物語」      作者不詳

    「西行物語」      今田 東著

    「山家集」「百人一首」

    「西行」  高橋 英夫著



    さまざまな諸先輩の労を無駄にせぬ様にと心がけましたがここまでしか書け     ませんでしたことお許しくださいますように。

              作者敬白



    2002 8 22 草稿脱稿

    2002 8 27 第二稿脱稿

    2002 8 30 第三稿脱稿

    2002 9  1 第四稿脱稿

    2002 9  3 第五稿脱稿

    2002 9  4 第六稿脱稿

    2002 10 16 第七稿脱稿

    これを決定稿とし、

    別に稿を新たに「堀河」書いてみたいと思う。

    「西行のゆくえ」

    「中納言小倉山庵覚え書き」

    「菩提院へ西行」

    「児島澁川西行の旅」

    を別に上梓したいと考えている。



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